北海道マツダ販売株式会社 > おかげさまで、今年70周年 北海道マツダ

TOP MESSAGE
代表挨拶

マツダは2013年から「Be a driver.」というコミュニケーション活動を行っています。
この「driver」という言葉には2つの意味が込められています。
ひとつはクルマを運転するドライバー、もうひとつは世の中にドライブを掛けていく者という意味でのドライバーです。「誰もがあきらめてきた、走る歓びと環境性能・安全性能という、相反する技術の両立に挑みつづける」という宣言に対する答えとして送り出した新世代商品群は国内外で高い評価を受け、権威ある賞をいくつも受賞しました。翌年の2014年には「自分の行く道は自分で決める」と宣言しました。
これからもマツダはお客さまに魅力あるクルマをお届けしていきます。
私たちは、お客さまを深く知り100人100通りの理想のカーライフを提案したいと思います。
70年の歴史を刻んだ北海道マツダには親子2代続く社員もいますし、3世代、マツダ車にお乗りいただくお客さまもいらっしゃいます。お客さまとはそんな末永くお付き合いできる関係を築きたいと思います。

北海道マツダ販売株式会社
代表取締役社長 横井 隆

HOKKAIDO MAZDA STORY
北海道マツダの歴史を振り返る
【北海道マツダ販売 会長 横井 久】

昭和28年に創業した当社に昭和32年に入社以降、数々の場面を北海道マツダと共に
歩んでこられた横井久会長に、70年の歴史を振り返ってお話ししていただきました。

  • EPISODE 1逆境を乗り越え、今に至る。



    北海道マツダの創立が昭和28年8月で、私は昭和32年からの参加ですが、その前の4年間のことも七之助前会長から聞いて知っています。

    1つ目の逆境は本社の火事です。「地震・雷・火事・親父」といってですね、創業期の会社にとっては非常にリスクでした。というのも当時は拠店がなく建物があったのは本社一か所、あとはサブディーラーでした。ですから、本社の火事というのは相当なリスクでした。

    また、三輪から四輪への移行期も大変でした。私が入社した昭和32年は三輪が丸ハンドルになった年です。だから三輪から四輪への移行は昭和33年以降だったように思います。当時の免許証は三輪と四輪に分かれていて、営業スタッフは三輪の免許証でした。自動車免許なんて当時は特技でしたから、一般の人は免許なんて取れませんでした。その頃はオートマティックなんてなく、クラッチは二段クラッチで免許証をとるのが難しかったですね。三輪の免許証しか持っていない営業スタッフは、三輪から四輪への移行の頃、四輪の免許を取らなければいけませんでした。これは全国どこでも一緒でした。
    それから北海道独特のハンデだと思うのですが、当時は除雪体制が完備されていませんでした。そのせいで札幌市内にも轍ができていました。二輪の轍なので、三輪の真ん中の轍がなくて困りましたね。

    創業時の思い出としては、当時のマツダ社長松田恒次さんが、お供を2,3人連れて北海道視察をしました。これは空前絶後ですね。恒次社長の後の社長は、耕平さん、山崎さんと続いていきましたけれど、今の時代まで辿っていくと、当時はマツダメーカーのテリトリーは国内で、今は世界です。世界を市場にするということは、国内、アメリカ、中国、それからヨーロッパですか。そうすると国内市場というのは大雑把に言って四分の一の市場です。メーカーの社長は世界を視野に入れて対応していかなければなりませんね。だから、これからも社長が道内視察ということはないでしょう。北海道市場は国内の市場の4%です。25%のうちのさらに4%ですから、市場としては小さいですね。歴代の社長の中で、北海道に来ても札幌止まり、それで札幌まで来た社長というのは、耕平さんが来ました。それから山崎さん、ウォレスさん、その後は井巻さん、山内さんが北海道に来ました。

  • EPISODE 2それぞれの時代、“クルマ”と共に歩んできた70年

    1980年発売、1981年には日本カーオブザイヤーを受賞した、5代目ファミリア
    1966年発売の初代ボンゴ

    石油ショックで打撃を受けたマツダとしては、真っ赤な新型ファミリアは久方ぶりのヒット商品でした。その頃、マツダの販売店協会の会長はうちの先代会長でした。ファミリアのヒットでメーカーは立ち直りました。もう少し時代が経って、私が同じく会長を務めた時はアテンザ、アクセラが登場し、メーカーの収益が上がった時代でした。前会長と私がマツダ会の会長のとき、メーカーの社長はディーラーに対して柔らかかった。「ワンマツダ」でしたね。

    それとボンゴ。軽自動車という時代(1966年5月~1968年3月)がありました。人気がありましたね。横井前会長はマツダオート北海道(当時の北海道マツダの関連会社)のスタートの前に、私に軽自動車の方を担当させてくれたのです。
    この頃までマツダのライバルはダイハツでした。ダイハツは四輪登録車にはついてきませんでした。マツダは軽を捨てて四輪市場。ライバルはトヨタ・日産になりました。やっぱりダイハツがライバルとトヨタ・日産がライバルとでは全然違います。それで軽三輪・軽四輪の時代は含軽(登録車と軽自動車合計)販売で日本一に躍進(1960年からの3年間)。トヨタとの差はあまりありませんでした。
    そのころ通産省が貿易自由化ということで、国内自動車メーカーを3つのグループに分ける「3グループ構想」を発表。マツダとホンダは四輪乗用から除外でした。構想はね。でもマツダもホンダも粘ってそこに参入していきました。それで今トヨタとマツダの差は、その軽三輪・軽四輪トラック時代とは段違いですね。トヨタは含軽で今40%くらいかな。マツダは含軽で3.8~4%くらい。膨大なギャップですね。

  • EPISODE 3社長就任時に掲げた三つの目標

    1955年、現在の本社所在地に移転した本社社屋
    1979年、全面改装した本社社屋

    私が社長就任したのは昭和54年です。その前年の昭和53年、総売上が創立以来最高でした。創業以来25年です。先代会長が青雲の志を抱いて創業し、事業が少し安定するのに25年かかりました。

    また会長が創業時に描いていたのは中央区に本社を建てることでした。中央区に本社を建てるということは、札幌の自動車販売店オーナーの夢だと思います。中央区に本社があるのは数えるほどです。ですから北海道マツダの売りの一つにしてもいいのではないでしょうか。

    それと当時は6年連続マツダディーラー収益トップでした。週刊ダイヤモンドが一年に一度、国内ディーラーのランキングを出していました。まだ個人情報保護法の網にかかっていないときです。そこでマツダディーラーの中で収益トップ。国内全ディーラーでは30位くらいでした。

    週刊ダイヤモンドは全国でしたが、日刊自動車新聞では地域別の番付があり、日刊自動車新聞には北海道マツダの重戦車型拠点という紹介がありました。前会長は常々「二台目は工場から」と言っていました。それから「堅実な経営」「優良企業を目指そう」とも。
    私が社長就任時に掲げた目標の「サービス部門のさらなる充実」「堅実な収益の確保」「人材が豊富に育つ会社」というのは前会長の指示でした。前会長は教育者でしたね。

    この「二台目は工場から」という言葉は、現在も北海道マツダの理念になっています。

HOKKAIDO MAZDA HISTORY
SINCE 1953
1953
昭和2881
北海道マツダ販売株式会社を設立
(札幌市北5条東2丁目)

札幌トヨタから3輪トラックの全道テリトリーの販売権を譲り受けて実質的には分離独立という形で発足した。

1955
昭和30
現在の本社所在地に新社屋移転
(札幌市北2条東1丁目)
1960
昭和35
R360 クーペ発売

東洋工業(現マツダ)が初めて発売した四輪乗用車。

1970
昭和45
カペラロータリー発売

札幌三越の屋上で展示会を開催。

1979
昭和548
本社社屋全面改装完成

建物の老朽化と経営拡大によって社屋自体が手狭になったため、全面的に増改築。

1985
昭和60
日本初のフルタイム4WDファミリア発売
1992
平成4
オートザム AZ-1 発売

個性的なガルウィングドアが特長。

1996
平成8
デミオ(初代)発売

一躍街の人気者となった自由型ワゴン。

2002
平成14
アテンザ(初代)発売

ブランドメッセージ“Zoom-Zoom”を掲げて登場。

2006
平成18
サービス技術世界大会で優勝!

世界各地から代表13ヶ国14チームが参加した
マツダサービス技術世界大会車両競技(団体)。
北海道マツダが日本代表で出場し見事優勝しました。

2010
平成22
北海道マツダ販売・マツダアンフィニ北海道 統合

店舗数・社員数で全道一に。
全国でも屈指のメガディーラーとなりました。

2012
平成24
CX-5発売

SKYACTIV技術を
全領域で採用したクロスオーバーSUV。

2017
平成29
本社社屋新築完成
(札幌市中央区北2条東1丁目)

2カ所に分かれていた本社機能を集約。
1階の札幌店は新世代店舗として、全国屈指のマツダ旗艦店としてオープンしました。

2023
令和5
北海道マツダ70周年